昨年暮れ、クラシックコンサートで、蘇莫者をテーマとしたハーモニーでもポリホニーでもなく、 非西洋的で独特な、ヘテロホニーという作曲技法による音楽、しかも演舞付き世界初演を鑑賞した。 舞楽「蘇莫者(そまくしや)」は、聖霊会(しょうりょうえ)という、聖徳太子をお祭りする 主要な演目とされている。蘇莫者面は、人間でも、獣でもない他に類を観ない面であり、 現在ならいざ知らず、その昔、明日香人の懐のなんと豊かなことか! 以前、友人が制作した蘇莫者面で抱いたイメージが一層大きく膨らんで、 作画意欲につながって一気に描いてみた。
放送技術や録音技術のめざましい発展で音楽界は大いなる恩恵をうけている。 そのお陰で著名な演奏家による演奏が手軽に楽しめ、それが何時しかレコード芸術化の域になり、 収録技術の発展は、CD化につなかってきた。二度と現れないであろう不世出の名演奏家、 特にクラッシク音楽が好きな私は、特に弦楽器に思いが深く、往年の名演奏家たちの確信に 満ちた演奏がLPレコードで出会う事ができた。いずれも説得力があり、聞き手の襟を正させ、 個性に溢れ、心にグイグイとせまる演奏で、感動で胸がいっぱいになる青年期を過ごした。 この度の絵は、それらのマエストロ達に感謝の気持ちを込めて作画した。
絵を描くとき、上手くあってはならない。綺麗であってはならない。それが私の変わらない信条だ。 油断して技術上達という贅肉を身につけないように。肝心なことは、己の特性を信じて、 心の眼で描く努力を怠らないことが最も大切なことだと思っている。私は楽器演奏する人々を 自己の特性で描くことをモチーフの一つとしてやってきた。 その都度、他の絵の制作では味わえないある種、心の開放感の余韻を残してくれる。 楽器を持つ人は心の叫びを音に託し、絵を描く人は、心の叫びを形や色に託す。それが絵画芸術だ。
奈良東大寺界隈を散策すると大勢の人々が訪れている。この度も、南大門を行き交う学生達の ざわめきや海外からの旅行客の中で一緒に金剛力士像を見上げていると、「阿吽像」はもはや 「A・UN像」として彼らに記憶されて行くのだろうと思った。今度はそれをやってみよう! 所詮、手のひらのじゃれ事にすぎないとはわかっていつつ、 インターナショナル風の「A・UN」を描いてみた。
最近、少々規律的イメージを求める傾向であったが、もっと即興的、観念的なものを描こうと思い、 古代ギリシャでは「芸術の神」、「音楽の女神」と称されている「ミューズ神」を描いてみた。
再び、富士を背景に風神雷神を描いた。 制作中、風神雷神が持つおおらかで不変な存在が、 今後も、新たなイメージで飽きることなく繰り返して描きたくなる思いがして、 うれしく心が温かになった。 次はもっと二神が遊び狂った絵にしたいと思う。
寒山拾得(かんざんじっとく)、二人は中国・唐時代の伝説的な僧で、 いわゆる非僧非俗で欲や名誉に執着せず自由奔放な生き方を生涯貫いたと伝えられている。 遠方より経巻を持ち帰った寒山を、留守番の拾得が箒片手に出迎えている姿である。 寒山は後世に詩集を残している。日本では、寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の化身にたとえられている。 この度は彼の詩集より「風に吟ず一様の松」を賛画ふうに画面背景に入れてみた。 寒山拾得図は昔から多くの文人画の材題となって描き継がれてきた。 森鴎外は小説に、坪内逍遙は長唄に残している。
この度も富士山を描いてみた。 この山は普段見ることが出来ない事もあって、殊のほか、強い思いを持っている。 富士はどのように描いても、富士そのものが受け入れてくれる懐の広い暖かい心を持っている山だ。 その意味で、昔から「富嶽」と言って尊ばれてきたのだろう。
大日如来の怒りの化身とされている不動明王は、忿怒不断、休日返上で 日夜勤務されています。 少しも進歩しない人間世界の愚かさに匙を投げることなく・・・。 たまには穏和なお姿で有給休暇でもしてほしいものです。
風神と雷神が富士がたつ天空で対峙し、互いに雄叫びの競い合いをしている・・・。 古くからこの二神に、自然への畏敬を抱き除災を祈願する対象物として尊ばれ親しまれてきた。 また、多くの画家たちが単なる宗教画の域に止まらず、自己表現の素材の一つとして 描かれ受け継がれている。 今日の科学文明の現世でも困ったときの神頼み。 「風ちゃん!雷ちゃん!」この災い多い日本をよろしくたのんまっせ!
アラカンの映画「鞍馬天狗」の影響か! 各自、棒切れを探してきて工夫した名刀?を作ってちゃんばらゴッコで町内を走り回る。 誰云うともなく怪我させないよう気遣いしながら ♪「チャンチャンバラバラ砂ぼこり、刀で切られて血がタラタラ・・・」
右手に指揮棒をもって演奏されるスタイルで各演奏家たちに伝えるのが一般的 なのですが、 タクトを持たずに素手でされる指揮者がよくおられます。 その方々の指揮ぶりを見ていますと、リズムを伝える仕草、ハーモニーやメロディ−を 伝える指先などに、「ひょっとしたら、この指揮者は左利きの方ではないか。」 と思うことがあります。 左利きを気にして指揮棒を持たないのではないかと・・・