岡部 光男 作品集     
 
過去作品:   ■ 1995年以前   ■ 1996〜2000年   ■ 2001〜2005年   ■ 2006〜2010年   ■ 2011〜2015年 

『QUARTET』 2024年9月/F10号


カルテト(四重奏)といえば、まっ先に弦楽四重奏が思い浮かび、ハイドンは弦楽四重奏曲の父と云われています。親しい
仲間や家族で気楽に楽しむ四重奏はヴァイオリン二つ・ヴィオラ一つ・チェロ一つの楽器編成にたどりつきました。
その門弟ベートーベンが初めて演奏会用に作曲され、以後ロマン派の作曲家たちによって交響曲に並ぶ重要なジャンルと
して数々の名曲が生まれ、プロの演奏家たちによって室内楽の中心の一つとして弦楽四重奏は不動のものとなりました。
そのお陰で今日ではレコードやCDで優れた数多く弦楽四重奏曲を楽しむことが出来ます。
このような小編成の演奏は大ホールよりも小ホールでの演奏は奏者の思いが息つかいとともに直接聴衆者に伝わります。
室内楽をじっくりと楽しみ共鳴する姿は、日本文化が持つ無駄をそぎ落とし神髄を求める思考に類似したものを感じるのです。
 


『[ K & J ](マイノリティ)』 2024年3月/F20号


寒山拾得図は、かって文人画として広く屏風や掛け軸に多数描かれてきた題材です。
森鴎外の短編小説「寒山拾得」を繰り返し読むと、この風狂の僧のたちは社会的少数の
弱者ではなく、無形の豊かさを獲得した哲人の存在として二人を描いた短編作と思える。
この度はこれまで数度描いた寒山拾得を再び新たな心境で再びトライした。
 


『Cellist』 2023年11月/F10号


私はチェロという楽器に惹かれる。青年期に往年の名チェリスト、パブロ・カザルスが1929年頃収録のSPレコードの
音源をLPレコードにトランスファーしたのを入手。
パブロ・カザルスが奏でるチェロ独奏は貧しい音域ではあるが、それを超越して奏者の気迫がダイレクトに伝わり魂を
ゆすぶられて感動した。
それ以来チェロという楽器はバイオリンより遙かに深く広い可能性を持っている楽器と想うようになった。
時代がすすみ幾多の名チェリストたちの演奏がCDで再生され、それらは録音技術の進歩とともに遙かに豊かなサウンド
で楽しませてくれるが、パブロ・カザルスが残した演奏のそれと比べるとなにか物足りないものを感じる。
カザルスの演奏には言語で表現しきれない大切なものを感じさせ満足感を抱かせるのです。
この度は、カザルス賛歌をテーマに作画してみました。
 


『ARAKAN』 2023年3月/F20号


阿羅漢(あらかん)は略して羅漢、一般に“らかんさん”として親しまれてきた。阿羅漢は、仏教において悟りを得た釈迦の
弟子、尊敬や施しを受けるに相応しく、全てにわだかまりを捨てた聖者とされている。
羅漢は各地の寺院に十六羅漢や五百羅漢の像として彫られたり画幅として安置されてきた。
賑やかに高笑いをしている姿、怒っている姿、何やら話しをしている姿、嘆いている姿など、一見して他を寄せ付けない
哲人の風体もあり、あたかも凡人であるかの風体でたたずんでいる姿もある。
日常から離れた寺院という空間にあるためなのか、来訪者はそれぞれ“らかんさん”の表情をみて、あれこれと感じ取り、
癒やされたり、笑ったり・・・自分が共感する表情の像を探す人も出てきます。
 


『デュエット』 2022年10月/F10号


デュエットはギリシャ語で「2」を表す数詞δυο(デュオ、ズィオ) に由来するといわれています。
音楽では二重奏や二重唱のこと。二重奏として代表的なものは2台のピアノで演奏する曲や、一台のピアノを
複数で演奏するピアノ連弾曲があり、中には自分のパートナ−との演奏のために作曲されたものがあります。
独唱曲や独奏曲では表現しきれないものを求めて作曲されたのでしょう。デュエット曲を聞くと演奏している
二人の個性の違いが、まるで会話のように伝わるのが醍醐味の一つです。
この度は、四手のピアノすなわちピアノ連弾の音楽を聞きながらこの絵を制作しました。
 


『疫病退散』 2021年10月/F10号


新型コロナウイルスは、全世界の2億3千7百万人が感染し死者は484万人を数え、そのうち日本では、
171万人が感染し、死者T万7千人を上回る数を数えていて未だ終息に至っていない。その一方、外国産
ワクチン接種のお陰で明るい兆しが見えてきたところでもある。私たちはこの感染の渦中に居て、危機管理
として「疫病」を、今更ながらその重要性に気付いた。この感染は人類の歴史に記憶され、数々の出来事は
語り尽くせない程のページにのぼることだろう。日本の感染者数は、このところ劇的な減少傾向を見せては
いるがその解明には至っておらず、第6波の大波を警戒する動きも出でいる。
そのような中で昨年春から今年夏まで絵画作品発表の機会がなく、私は今秋になってようやく本画に向かう
気になり、先ずは「疫病退散」を制作し、一つの区切りとしたいとの想いでこの絵を描いた。
この刻を過ごした一人として、これから先の絵画制作に深みが増してくる様な気がする。
 


『HINAMATSURI』 2020年3月、2022年4月加筆/P40号/1996年「雛まつり」の改作


1979年(昭和54年)頃の作品の上に1996年(平成8年)に筆を加えたものを、さらに今回新しい気持
ちで再び24年ぶりに手を入れようと取り組み、単なるひな人形ではなく“男びな・女びな”に阿吽の表
情を取り入れた作品としました。通算41年の年月を経てゆくと味覚が変わるのと同じで、絵に込める
想いが随分変わり、2年後さらに筆をいれ全く違った作品へと向かうことになりました。
思えば、当初は自分の娘へのひな飾り人形の代用目的が制作動機でしたが、その絵にさほど感心を
示さなかった娘は今や二人の子の母。この絵はさしずめその孫娘にリレーした作品になり、やはり孫
娘もこの絵に無関心。きっと孫娘たちも「変な絵」と思っていることでしょう。
 


『納曽利面』 2019年10月 / F10号


舞楽(雅楽)は「うたまい」と呼び、文武天皇4年(700年)に、刑法と行政法と民法が揃った大宝律令が
ほぼ完成したこの時代に、職員令(しきいんりょう)が発せられて治部省雅楽寮が生まれ、国の“舞”に
された、とのこと。
私の友人に、奈良の楽面会に属して古楽面造りで、毎年新作を披露されている美術作家がいます。
古楽面の深遠な美を今日に伝承している姿に感化をうけ、古楽面師たちの作品展示を鑑賞するのが
楽しみの一つになています。
さて、数ある舞楽の中で納曽利(なっそり)の舞の動きは活発で“走りもの”として競馬節会(くらべうま
せちえ)では常に舞われ、紫式部の「源氏物語」第25帖(蛍巻)では、六条院での端午の節句の騎射
などで登場するくだりが有ります。
この度は、日本の古代文化の一端に触れる思いで、納曽利面を私流に絵画としてどこまで表現でき
るかトライしてみました。
 


『心象不二山景』 2019年1月 / F10号


小生、常に抱いているオンリーワンの“不二観”を、気持ちのおもむくままに再び描いてみました。
この度は、水石の小富士を片手に“人の技は天の技に勝る”と人の感心を引き、そしてまとめでは
“富士は俺の手の中にある”と、雄々しく詠み「不二石に題す」と名した高杉晋作の詩を賛に拝借!。
英雄豪傑。倒幕・維新へ奔走の半ばに早逝した若き志士の豪気で才気走った心根に感化を受けて、
少々手前勝手ですがそのような漢詩にぶっつける気持ちでコラボ風に賛画を制作しました。
 


『心象山景「カプリッチョ」』 2018年9月 / F10号


「カプリッチョ」(Capriccio)は、西洋音楽の一形式で「狂詩曲」や「奇想曲」のことで、数々の名曲が
知られております。このイタリア語は元来、形式にとらわれない例外的で “きまぐれ” の性格を
表しています。この度は、一つの山風景をベースに置き、一面に茂った雑木林や雑草のありふれた
その形状を自己流に解釈し、その形が持っている潜在的な存在感とデスマッチ!。
また賛には南北朝時代の武将・細川頼之(1329−1392)の漢詩「海南行」(かいなんこう)を拝借して、
作詩当時の細川頼之公の心境に思いをはせながら、単なる風景画ではない絵を試みました。
 


『騒々しいカデンツァ』 2018年2月 / F8号


クラシック音楽の、オーケストラとピアノや弦楽器などの独奏者が共演するいわゆる協奏曲ではその
終結部に、独奏者が即興的に技巧を披露する楽句(カデンツァ)が有ります。奏者が自由に即興演奏
が出来る部分とした作曲家の意図があるのですが、かっての名演奏家が披露したカデンツァを、その
まま演奏する演奏家がほとんどです。私達音楽フアンは、その独奏者の自作カデンツァを聞くことも楽
しみの一つ。邪魔されることなく自由に表現できる、聞かせ処のスペースを、無難に済ませることに少
し不満です。私は我が国においては、音楽芸術は絵画芸術よりも一歩先を進んでいると思っている内
の一人ですが、このことがクラッシク音楽への唯一のクレームだ!と心中で叫びながら、カデンツァを
絵画で気ままに表現しょうとしました。私のは、決して心地よい技巧的なものにはなりません。まるで、
おもちゃ箱をひっくり返したようなカデンツァにしてみました。さてどんな協奏曲が思い浮かぶでしょう。
 


『響(サウンド)』 2017年9月 / F10号


琵琶は、中国から雅楽と共に日本に伝来し、大ぶりな琵琶、小ぶりな琵琶、語りものの伴奏に用いる
琵琶、大きな撥で弾く琵琶、明治時代になって三味線の要素を取り入れた琵琶が出来るなど、概ね
今日まで5種類に派生し受け継がれて来ています。
琵琶はその特性として、軽やかではないが透明感のある澄んだ音色と余韻の深い音色を放ちます。
撥で弦を弾くのみに留まらず、撥で弦をしばく、しごく、たたきつける演奏の大胆さは、西洋音楽の世
界ではノイズとして排除されそうな音域をも併せ持ち、洋の東西を問わず琵琶は弦楽器の中で最も
力づよく弾くことができる楽器といえるでしょう。

 


『トリオ(守・破・離)』 2017年1月 / F30号


昔から芸術を創造するスキルとして、守破離(しゅはり)三文字で表す修業や、思想があります。
「守」は、先達から手ほどきを受け心得を守る。「破」は、身についたものを破り、セオリーに逆らう。
「離」は、これまで蓄積したものから離れて独自の道を編みだす。この三段の階層になったものです。
しかし私は、これを昇りつめてゆくステージではなくて、「創造」には絶えず守破離が混然と展開する
処に制作の真理があると思います。
この作品は守破離三文字を、室内音楽の三重奏を表すトリオ(TRIO)に語呂を当てはめてみました。
つまり、TRIOの TからはTeachings(教え)、RIからはRip(破る)、OからはOut of(離れる)と訳してみる。
このように、極めて手前勝手に守破離を想定して、ピアノ・バイオリン・チェロで構成するピアノトリオが
演奏する往年の名曲に浸り、気の向くまま未知を求めて制作しました。

 


『提琴譚詩(バラード)』 2016年9月 / F10号


バイオリンの歴史を振り返りますと、16世紀から18世紀に至る約200年間に、北イタリアの
ロンバルティア地方の小都市クレモナの幾多の名工房で、約2万本のバイオリンの
名器が製造されたと伝えられております。しかし代表的な名器「ストラリバリウス」の
性能は21世紀前半がピークになるとの説。それは木製が自ら背負う特性の限界なのでしょう。
この度は、20世紀後半に活躍された往年の名演奏家による名曲を聞ながら、
私の中の「常識」という強敵を相手に、まるで囲碁の対局でもするかのような気持ちで、
この作品に向かいました。さて強敵の「常識」に勝つことができたのでしょうか。


 


『開かる(はだかる)』 2016年3月 / F10号


創造とは、それまでにない新しいものを産み出すこと。と辞書には記されいます。
世の中は、あらゆる面で常に想像力を働かせていますが、とりわけ、絵画芸術の創造は
行為そのものであり、未経験の領域に踏み込もうとすると、行く手を遮ろうとする力が
前に立ち開(はだ)かります。つまりそれまでの常識的経験が邪魔をするのです。
それに屈すると、どこかで見たような領域に留まって、創造ではなくて小手先芸に堕ちてしまいます。
それだけに、新しいものを産み出した時は喩えようのない感動と感謝の気持ちが湧いてきます。
創造は光と影の関係と同じようで、次の創造に挑もうとすると、経験は影になってつきまといます。
芸術世界においての創造は、より深い境地を目指して歩み続ける茨の道にあるようです。


 


『語りと撥(ばち)』 2016年1月 / F30号


文楽で最も大切なことは、「情」を描くことにあると云われております。
さらに浄瑠璃の基本はいかにして「情」を伝えるかだと。
太夫(たいう)の「語り」(かたり)は、腹式深呼吸によって、喉から鼻の奥に抜けさせて、
眉間から出す音(おん)の息で「情」を伝える。また一方の、太棹(ふとざお)三味線弾きは、一回り大きく
重い本体と「撥」(ばち)を使って、単なる伴奏ではなく、鋭さと切っ先の技芸で太夫を道案内。太夫の
足下を照らし先導してゆき、太夫はそれに遅れないようについてゆくのだと。このような深遠で激しい
伝統芸を、 “文楽は難しく考えず気楽に楽しんで鑑賞してほしい”と話は結ばれた。
おかげで私は伝統芸とはほど遠い境地で、無手勝流に楽しんでこの作品に向かうことが出来ました。